屋根のない博物館ホームページ作成日誌
2017・1・5/
 三ヶ日、地元川尻八幡宮のお手伝いをさせて戴きました。境内を歩いていると突然私に、古墳についての説明を求められました。あまりのことに一瞬「ええっ」と驚きましたが、私が普段から考えていることを、それなりに御説明させて戴きました。昨年は「聖地巡礼」と云う言葉が流行したように「関心が深くなっているのかなあ」と思いながら主に立地条件や起源についての説明をさせて戴きました。そうした中で、古墳の向きが、1100メートルもある参道の向きとどうも同じような気がしてまいりました。これから精密に測定しなければなりませんが、こんなこともあるものかと御説明中にビックリしてしまいました。それぞれの方向性について私は別々に考えていましたので、突然の参拝者の方から、お答えを戴いたような気がしてなりませんでした。津久井郷土資料館の建造物の保存に関しては、どんなことがあっても死守しなければなりません。「金子文庫」の保存、武田久吉博士の資料整備など、「後世に伝える」ことも、また「屋根のない博物館」運動はこうして皆様方に支えて戴きながら今年も動き始めました。どうか皆様宜しく御願い申し上げます。
2016・3・11/
 3月10日、陳情書が不採択になった。3時過ぎ、冊子小包を受け取った。本は加藤武雄著「襖の文字」である。店主からの添書きに「いつもありがとうございます。 今春がお客様にとってよい春になりますように またのご来店 心よりお待ちしております ○○商店」何故か心にしみた。気分転換に私の名前に似ている人にも電話した。そうしたら笑って下さった。後で二ヶ所に電話をし、ひとりにメールを送った。それから、N先生からネギが山のように玄関に置いてあり、暗くなると退院した息子にと果物を頂いた。テレビでは元ジャパネット高田社長の課外授業を見、涙が止まらなかった。
 郷土資料館に寄贈した人々、何人の人が果たして涙を流したことか、喜びなどそうはなかったか。つつがなく毎日を過ごされていたか、思いをよせる。静かな人と何も言わないとは、意味が違う。意見が出ないから、何をやっても良いものか、それは大それた自惚れだ。
 スポーツ課←グリーンプールの飛込台は、国際規格ではない。事前キャンプ(再確認)
 博物館←郷土資料室の民具は未だ決まってないが、民間倉庫で今後保管する。(再確認)
2016・3・6/
 津久井郷土資料室の存続をめぐり、私は相模原市文化財保護審議会に審議の依頼と相模原市議会には陳情書を提出している。8日は文化財保護審議会、10日に文教委員会での審議が行われる。私は津久井郷土資料館に通いはじめて35年は経っていると思う。まだまだ内容を理解するまでに至っていない。3・11大震災以降、公共施設の在りようが検討され、その最前線にあるのが津久井郷土資料館だと思っている。私の思っていることの裏腹の出来ごとが今現実の問題としてある。何を目指すかでその結論がでると思っている。ただ私が心配しているのは、総論は理解できるとしても各論の部分になるとどうなんだろうと云う疑問である。私は地団駄を踏みながら、ストレスの絶好調にいる。
 カワラハハコを増殖するために「挿木」の方法で試験をしている。枯れてしまったと思っていた所から新芽が出てきた。11月の遅い時期での挿木だったので無理かと思っていたので予想外だった。カワラハハコの増殖法はこれで理解できたと思う。思えば失敗の繰り返しだった。
2015・12・7/
12月4日、T先生からの依頼があり、鎌倉の小学校に行った。目的は一年生に「紙すき」を教えることだった。事前にわたした手引きには平成2年とあったから、もう25年も前のこと以来である。特別室に入ると、既にビニールシートが敷かれ、タライには、牛乳パックから作ったパルプが用意されていた。丁寧にムラがなく、ヨクゾここまで一年生が作ったものだと、やがて、目をキラキラと輝かせて一年生が入って来た。ほとんどの子供達がモミジやイチョウの葉を入れた作品に仕上げたが、無地のままの和紙に挑戦する子供たちもいた。自分なりのこだわりか、何回も挑戦する子供もいた。別室では、出来た和紙にアイロンをかけるお母さん方がいて、その光景はとても微笑ましかった。黒襟のネンネコバンテンの中には赤ちゃんがおとなしくしていた。そんな姿を子供たちも見ていた。なんだかとても嬉しい気持になった。ヘレンケラーが講演した講堂も残った。この学校には「サリバン先生が大勢いる」と思った。帰り、鎌倉中央図書館、英勝寺山門、源平ヶ池などを廻って帰った。この日は息子の誕生日でもあった。
2015・6・23
このところの暑さと梅雨で畑に行くのが億劫になった。行って見るとサラダ菜が茎を伸ばし花が咲きそうになっていた。私は困って、その野菜のわりかし良い方を持って知人の家に行った。急に行ったので留守のようだった。玄関にその野菜をソット置いて家に帰ったが気になっている。野菜ではなくて、日々の無事である。
 「あの頃は若かった」そんな自分にまた、心配事がまたひとつと増えて行く。津久井郷土資料館が休館になり3ヶ月になろうとしている、それより前の「旧城山町の民俗収蔵庫」は、荒れ果てたままだ、恐らく此の現状を、果たして何人の人が知っているだろうか、「生きた、活気ある博物館」の到来はあるのだろうか、お世話になった、勉強をさせて頂いた、施設をこのまま、荒れ果てるに任せて良いものだろうか、私はそんな心配をしている。段々と行動力の鈍る自分に言い聞かせ、今の自分に順番が廻って来たことを予感している。
 平成元年3月に発行した「城山町民具所在目録」を改めて読んで、当時の人々の心意気を感じている。「人間は考える蘆なのだ」、先人の知恵に学び、次の世代にちゃんと伝えるために、やれるだけのことを、これから、やろうと決断している。
2013・1・7/
元旦の日、メジロがつがいで来た。いつもの餌台のミカンを食べる。穏やかな正月だと思っていると、ヒヨドリに驚いたのかガラス戸に当たって倒れこんだ、鳥籠がなかったので妻と息子が買いに行ってくれた。そうして片方の羽が動くだけの可哀そうな日が続いた。只救われたのは、水に濡れながらもどうも水と遊んでいるらしい。それと旺盛な食欲だった。それで夜はタオルを籠に囲んであげると静かになった。それが良かったのか分からないが鳥籠の中を両翼で飛ぶようになった。そうしていると「ピーピー」と鳴き始めた。外の方でも「ピーピーピー」と鳴いている。メジロに調子が出てきたようだ。そうして7日目、相棒のメジロがミカンを食べに来たので籠を開けて見せた。メジロが巣から飛び立つと二羽が一緒になって飛んだ。これで良かった。相棒も忘れていなかった。わたしはこの日の朝、「おたく大賞」の応募作品を持参して緑区役所に行った。タイトルは「幻の相模野用水 取水口はどこ」やっといつもの日になったようだ。寒川神社に初もうでにも行った。
2012・12・16/
 
今年3月会社を退職し間もなく新年を迎えようとしている。武田博士の民俗資料調査から「セイノカミについてまとめなければ」と思いながら足踏みをしている。何と言っていいのだろう、私に張りつめた、研究への熱意が希薄ではないかと思うような怠慢さにヤキモキしている。来年こそはまとめようと思う。「城山自然の家」の直ぐ脇に丸太の長椅子を取り付けた。川尻小学校5年生のみなさんからのプレゼントだ。丸太の長椅子を竹の棒を天秤にしてエッチラオッチラ運んだ。近所のオジさんやオバサンたちからも喜んでもらった。本当に良かった。設立時の要望の中に「ベンチが欲しい」と3人の子供たちから要望があった。それが19年ぶりに叶ったのだ。嬉しい。長椅子に座って田んぼを見まわす。兎に角嬉しい。
2012・5・29/
6月7日は武田久吉博士の御命日です。没後から40年になりました。博士を「山岳の人」「自然保護の人」、また「尾瀬を救った人」私も当初そんな風に思っていました。膨大な鈴木重光資料の中から博士の11枚の写真を見つけ出すまで、博士がまさか草創期からの民俗学者であることを思ってもおりませんでした。そうしたことから、「11枚の写真」の項では間抜けなことに「「道祖神」はそうした研究の合間から生まれた記録集」などと記述をしてしまいました。私はとんでもない過ちをやらかしてしまいました。でも、何かのご縁で、これまで大切にされてこられた博士の民俗資料や藻類論文また蔵書等を直接お手に触れることの機会に恵まれました。私は今、武田博士の労苦を忍びながら年譜の加筆や民俗資料の図録等の作成を行っています。もう少しでロンドンでオリンピックが開かれます。世間では金々と騒いでいるようですが、博士が戦時中「どのようなことを考えておられた」かと云うことを思うと胸が痛みます。人間が人として安らかに暮らして生きる方法、私は博士のほほ笑んだ写真を見ながら平和の尊さを感じています。
2011・12・1/
2007年の台風以降、大島河原の河川環境が一変してしまい群落をなしていたカワラニガナが4本だけになってしまった。そこで人や車が入れないよう柵を作って保全活動をし約180本にまで回復しましたが今年の台風でその場所の総べてが砂で埋まってしまいました。台風が去って水がひいた後、みんなでバケツで砂を掻きだし約20本を救出することができました。
 残念なことだが、最近になって救出したカワラニガナの2本を残し、抜かれ柵のロープもこわされました。残念だ。
2011・8・15/
今年の盆は満月です。3月11日の震災からいろいろなことが・・・・
2011・4・19/
交通事故から1年が過ぎた。今夜も曇り空、多分今夜も満月だと思う。この1年もいろいろなことがあった。卯歳観音霊場めぐりは、余すところ八ヶ寺となった。巡礼の旅は終わらない。また幾つもの山を越えようと思う。ありがとう。
2010・12・21/本日でリハビリを一応満了にした。M先生には大変お世話になった、いなかったら、こうはちゃんとに治らなかったと思う。感謝の気持ちを込めて、年甲斐もなくバラの花束を渡した。今夜は満月、それも皆既月食と云う。アイニクの曇り空で満月を見ることは出来なかった。闘病日誌の名は「夏の月」、「満月に突き進め」と、やりきれない気持ちをこらえながら、またいつもの道を歩いた。ありがとう

セイノカミ様ご帰還道中
2010・11・14/昭和57年当時、私は会社の局内報に「さがみ原よもやま話」を連載し、田名H地区のセイノカミを紹介したことがあった。その時、撮っておいた写真が今回の決め手となり、なくなったセイノカミの帰還ができた。なくなった理由は分らないが、その現場に立ち会えたことに感謝している。感動的な一日を過ごさせて戴いた。記録を積み重ねることの大切さを心行くまで堪能で
きた。地味な作業だが、これからも足で稼いで記録を取り続けようと思う。笑顔と優しさに包まれた一日であった。
2010・9・26/HPの表紙に八木ほう水の俳句を掲載している。今回の解釈は難しかった。内容があまりにも宗教的であった。辞世の句とはそうした生と死の狭間のような空間を云うのではないかと思う。結婚式の日の、花嫁の父が娘の手を放す瞬間に似ていないか。現実の世界から異郷の世界へ。解釈の裏側に「元気でな、ありがとう」と、云っているような感謝の言葉が行き交い哀しさが残る。/午前中、葉山島へウオーキング、念願のイチジクの木を見に行った。ご主人さまには会えなかったが、イチジクを写真に納めることができた。ウオーキングをしていると途中から右手がむくんで来ることがあったが今回は大丈夫。快復の兆しが見えて来るのが分かる。嬉しいような悲しいような、複雑な思いが交差している。





2010・7・30/7月27日退院した。その日、途中のお店で退院祝いのお菓子を購入、ご挨拶めぐり。Y記念館のFさんからは私がヨボヨボの字で手紙を書いたため随分とご心配をお掛けしてしまった。申し訳なかったことをお詫びしながらお伺いすると満面の笑みで迎えてくれた。うれしかった。Fさんは「神が与えた休息」とも、おしゃられた。その通りだと思う。
 リハのM先生からは言葉に尽くせないほどのお世話になっている。全治に向けオジサンは頑張るぞ。
 左手でKBを操作しながら一日かけてファイルを点検した。57の未完成なファイルがあった。とても時間が足りない、研究も進めなくてはならないし、自然相手のこともやらねばと思うが、何故か落着いている。これもM先生のお陰か、「また皆とやろうっと」。
 「装具外(と)り 山の泉に 足をつけー」 入院中、ベットで装具を外し、右手をシャクトリムシが這うように、アルミの手すりに触れた。まるで山の泉に足をつけたよう冷っこく気持ちが良かった。M先生は「分かる分かる」と云ってくれた。
2010・6・10/武蔵野大学小野澤先生のご指導によって「一遍上人五十二代霊随上人の名号塔」についての小論が完成できた。今は兎に角ほっとしている。当麻山については座間先生と云う偉大な研究者がおられた。私にはその足元にも及ばないが、ほんの少しでもいいお目を通して戴ければこの上なく嬉しいのですが・・・・。4月、交通事故に遭遇、車の運転ができなくなった。シモバシラや河川植物の群生地管理の事などが気になる。昨夜、仲間から見舞いだとマンゴー?2個と水羊羹を頂いた。14日から約一ヶ月間の入院生活が始まる。職場や家族それにボランテアの仲間たちに囲まれている自分に感謝したい。リハビリも少々?怠けてはいるがちゃんと先生の云う事をきき一日も早く現場に戻りたい。
2009・8・29(土)/今、一番気になっていることがある。私は毎週のように相模川の大島河原にカワラニガナの囲いがちゃんとしているか見に行っている。最初の頃はカワラニガナの回りに大きな石を立てていたが、釣をしている人から「「立入禁止」の看板を建てれば」と云われた。そう云われてから私は、簡単な棒を立て梱包用の紐でカワラニガナの自生している個所を囲んだ。そして「ご協力をお願いします」と小さく書いた札を建てた。それから数日して見に行くと囲いのテープが切られていた。また囲いの竹の棒も倒されている事もあった。それから暫くの間、囲いがそのままになって壊れることもなくなった。
 ところが27日に見に行くと囲いの棒も梱包用の紐もなくなっていた。私は空恐ろしく思いながら29日の早朝、再び竹で囲いを施した。ホタルの保護についても問題はいろいろあったが、囲いを外されるようなことはなかった。残念としか云いようがない。当日チョット離れたところに二組の男女が楽しそうに話しをしていた。私は軽く会釈をしながら直しているとその内、女の子がやって来て「がんばって下さい」と2回云ってくれた。嬉しかった。いつものことだがほとんど(100%)の人が事情を話すと理解をしてくれた。こんなこともあった、事情を説明した後、土手から現場を振り返ると私が事情を説明したその男性が10人ぐらいの人たちを相手に説明をしていたのである。
 当たり前のようにあった在来からの河川植物は今、瀕死の状態にある。原因は幾つもあるが、今は保護をしないと絶滅をしてしまうのだ。私は事情をよく説明し理解を重ねることだと思っている。いろいろの人がいることは事実だが紐も囲いも取って全くないのは、如何なものかと思う。情けないことだと思う。相模川大島河原で植物の遷移調査を行っています。皆様方のご協力をお願いします。
 囲いの中から6本のカワラニガナが出てきた。種が飛んで増えたら囲いを外します。どうか、その日が来るまで少し待っていて下さい。
2009・2・22/昨日今日と続けて大きなイベントに参加した。一つは伊勢原市で行われた「小林多喜二祭」と隣の町田市で行われた「屋根のない博物館・玉のよこやまシンポジウム」であった。前者では当日「蟹工船」の映画が上演され観客席の中央に福元館の女主人もいた。司会者からあらためて紹介されると羽織を脱いでお辞儀を繰り返した。多喜二が逗留した七沢温泉の女将であった。
 後者は町田市制50周年記念としての集まりで最後をフルート演奏で締めくくった。
 私はフルートを聞きながら魂の洗われていくような安らいだ気持ちになった。
2008・1・28/8.30昨年の12月、念願の書庫が完成した。そして誕生日には、赤い頭巾を被って祝ってくれた。Kさんのことが、脳裏を離れない。悲しい、暮れにTさんが大阪に
行き「もくげんじゅの種」を頂いてきた。Tさんはリックを背負いまるで旅の僧のようであった。その種を月に播いたが皮が硬くて発芽が難しかった。Y先生にお願いした分は三本が発芽に成功した。今は順調に育って涼しげな葉をつけている。あれもやりたい、これも・・・と思いながら中々進まない。御飯を食べると直ぐに眠くなる。あっと云うまに月日が流れ行く。
 9月にKさんが亡くなって1年が過ぎそう。辛い。やっと、いつもの「ほたる情報」を書こうと思い校正を始めるが、どう考えてもパットしない。良いと思って始めたカワラノギクの保全活動だが、今は行き詰っている。A新聞相模版に大きく取りあげられてはいるが素直に喜べない。28日夜は記録的な豪雨となり小松川沿いの山が崩れ樹木が川を塞ぎダムを作ってしまった。相模川も勿論増水した。私はカワラノギクがどんなふうになっているか大島河原へ行った。増水した川の中にカワラノギクが揺れていた。宿命だと思ってはいるがなす術(すべ)がない。早く退いてくれるのを待つばかりだ。「城山自然の家」も心配だ。夜、N先生から和田伝作、「鰯雲」の映写会があると電話が入った。急いで支度をして串川の交差点まで行ったが、二人の警備員?から通行止だと云われる。「ついてないな」と思いながら引き返す。人生いたるところ青山ありか。この日、祭りで撮った写真を持って歩く。この1年、憂鬱とまた憂鬱の1年であった。 愚痴もこぼしても少しでいいから前を歩きたいと思う。仲間に支えられ1年が過ぎた。
2007・8・4/今日は申し分なく暑かった。午前中11時までがもう限界、相模川の大島河原にカワラノギクの生育調査を行う。カワラバッタも飛び回っていた。ゴロゴロとした河原石の間からはカワラノギクが沢山目に入る。暑さのためか萎れそうにカワラニガナもあった。そしてカワラハハコの大きな株もあった。河原特有に育つ植物に胸をうたれる。風もなく熱中症になりかけながら調査を続ける。自分でも何でこんなにと思いながら、頭のどこかで会の設立から苦労をともにしてきたkさんのことを想う。「できることからはじめよう」と言い出したのもkさんだ。また難しいことが続くと「まあ、いいか」と云ってなんとなく許してくれた。今Kさんは病床中、粛々としていると云う。いつだったか「いい日 旅立ち」を歌ってくれたことがあった。後の歌は知らない。あの頃のことをしっかりと覚えておくぞ。俺達は最高の友達なのだ。そして永遠なのだ。何とも心細い安心だが「まあいいか、まあいいか」と自分に言い聞かせている。
2007・7・1/4月30日以降、HP作りがダウンしている。3月に合併して以来、新相模原市と共通するするテーマが何かないかと考えていた。水のこともあったが人との歴史的な関わりを試みたかった。旧相模原と津久井を縦横無尽に飛び回った人はどこかいないか考えた。その人物がどこかいないか考えた。だが、道はどんどんそれて、当麻のことに夢中になっている。宿では貴重な足跡を刻んだご本も見せて戴いた。また歩いては地域の皆様からもいろいろと教えて戴いていいる。当麻学とでも云おうか、いたるところで先人達の優れた文化遺産を検分している。何れ、まとめようと思ってはいるがなかなかだ。悪戦苦闘している。屋根のない博物館はどこまで広がって行くか自信が持てなくなった。
 徳本上人も考えたが
2007・4・27/長い選挙選がやっと終わった。こんなに燃えたのは恐らく初めてか。そんな気がしてならない。私はその昔、会社に入社するために試験官と面談をしたことがあった。「配属先は○○になるが良いか・・」と問われた。私は直ぐに「東京の中心なので頑張ります」といった。試験官は目をキョトンとされた。私は地理的な位置を説明した。そして笑いあった。
 城山町は新相模原市の中心である。選出された二人の議員が正々堂々として要となって活躍して戴きたい。暑くて辛い日も川の草刈を手伝って下さったのは旧相模原市のメンバーであった。刈っても刈っても草は生えてくる。「友情」と「心意気」がなければとてもできない。これからも友情と心意気に助けられ「屋根のない博物館運動」を続けて行きたいと考えている。
2006・12・14/重吉さんの地元、相原町のコーラスグループのみなさんが、NHKのTVで放映された「天花」の中の挿入歌「光遊び」を熱唱して下さいました。昨日、その記念のテープが我が家に贈られてきました。早速、私はそのテープを聴かせて戴きました。歌声は天子のように澄んでおりました。今日その記念すべきテープを持参し、八木重吉記念館に寄贈をさせて戴きました。昨日はまた、HPが3万回を突破、感謝の気持ち一杯です。まだまだ未熟ですが今後も勉強し活動の輪を広げて行きたいと考えております。ありがとうございます。
2006.11.23/城山地域史研究会へむりやり押しかけたようなかたちで「もう一人の加藤武雄」を発表させて戴いた。終わって兎に角ほっとしている。中味に関しては惨憺たるものだったが、自分では日本近代文学史の立場から発表できたのではとややほっとしている。加藤武雄に関してはまだまだ始まったばかりのような気がしている。あらためて先学の皆様に感謝したい気持ちで一杯である。これまで私は「芭蕉」や「赤い鳥」や「八木重吉」などをテーマにしながら地元にゆかりの深い文人たちをご紹介してきました。11月3日には遠く中村雨紅さんがいた家を紹介させて戴きながら、みんなで「ゆうやけ こやけ」の歌も歌いました。
 津久井は文学にとてもゆかりの深いところです。「北相模文学館」のようなそんな施設ができればと考えています。
2006.10.7/境川の草刈を9月の空いている時間に行った。背丈以上に伸びきったオオブタクサだ。花粉で頭が痛くなっったり、目がかゆくなったり散々だ。大量のオオブタクサを処分するのに困った。お金がないので、刈った後の重いオオブタクサを掻き集め岸に寄せた。見栄えは良くないがボランテアではこれが精一杯だ。最近はそのオオブタクサを覆いかぶすようにツル性の植物が伸び、刈った後にはまた草が生い始める。私は「今日はどうかなー」と思いながら朝そこを通るのを楽しみにしている。「おはよう」と声をかけると「おはよう」と声がかえってくる。
 ここ数日、島崎藤村のことを考えている。彼の小説の背景にあるものは何なのか、当てもなくはまり込んでいる。「ルソー」や「芭蕉」か、どうもそんな気がしている。私にはこうした分けもない時間が一番楽しい。重吉さんの詩ではないが静かにしているといろんなものが見えてくるようだ。だが休んではいられない、ヨロシクネ
2006.7.21/

 高価なマスクメロンを昨夜頂いた。もったいなくて家族中で眺めた。暫くはそうする。本業の仕事が忙しい、雷雨や梅雨前線の影響で電話の故障が多発しているためだ。いくら携帯電話の時代とは言え、長引くと社会的な影響を免れない。各地で被害が多発、尊い命や財産が失われている。自然とうまく向き合う。23日には、カワラノギクを守る会が新たに発足する。
2006・7.5/朝から雨。私は久しぶりにNさんと、湘南方面を訪ねた。目的は徳本上人の足跡を訪ねることと茅ヶ崎に山田耕作の曲「赤とんぼ」の碑を見ることだった。道中大変お世話になった。平塚の宗源寺では突然であったがご親切にして頂いた。ありがたかった。帰り海老名の門沢橋に芽を出したカワラノギクを見ようと思ったが、そのままにして帰ることにした。今春、子供たちと保存活動をしておられた先生が体調を崩され退職したためだ。カワラノギクを守る会の川又さんから「そのままにしよう」と云われたためだ。先生のことを思い、辛く悲しかった。みんなで、絶滅からカワラノギクを守ろう、何か失いかけたものを探し歩いた一日であった。帰ってから、読売新聞の夕刊に昭和20年代を設定した特別養護老人ホームがあることを読んだ。去年の今頃か元気のなさそうなお年寄りが「ホタルの案内所」に来られた。石臼による粉づくりの現場を見たその瞬間、昔を思い出したのか急にシャベリ始めた。活動を停止して1年が過ぎた。さあ、また始めよう。試運転の一日だった。
2006・5・17/「赤い鳥」と川尻小の子供たちと題した詩集がやっと完成した。まるで競歩大会のゴールのテープを切ったような気持ちだった。長かった。私は小学生の頃、クラスの仲間と「奇跡の人」と云う映画を町の映画館まで見に行ったことがあった。映画館から帰って先生がこんなことを質問した。「奇跡の人とは誰だろう」と問いかけたのだ。私はそのことの質問が今でも昨日のことのように焼きついて時たまそれを思い出す。金字塔を立てた「赤い鳥」の子供たちの詩を丹念に読ませて戴きながら、ふと、遠い日に見た「奇跡の人」を思い出した。三崎白秋会長の故野上飛雲先生もそのことか、「童謡の日」を前に神奈川新聞へ寄稿した。ご指導された先生をめぐって、地元ではH先生が同時に調査されていた。そして、再編集された詩には総て原本に忠実にルビも入り、完全な形で復元され冊子にまとめられた。HP掲載にあたりプライバシーの保護、著作権など難しい問題もあったが、大正から昭和にかけて活躍した子供たち、というよりも、むしろ物事を真剣に観つめ成長して行く子供たちを何としても私は紹介したかった。ひときは掲載数の多かった田中光さんは20才で短い生涯を終えられた。選評に当った白秋は最後まで光(ミツ)さんを男の子だと思っていた。HPがまとまる頃、私は彼女の墓に行った。「昭和7年5月19日 享年20歳」とあった。彼女の墓前にこの詩を捧げます。
2006・5・6/小松川の中流域に一本の梅ノ木がある。何年か前に植木の刈り込みをしたことがあった。私は「ほたるがいるから梅ノ木と茶の木を残して」と云いったことがあった。このことはだれも知らないかもしれない。私はほたるの頃になると、そっと見に行く。ふわーふわーとほたるとぶ。ありがとう。
2006・4・25/3ヶ月程前、我家に雄の野良猫が舞い込んできた。どこかで喧嘩をしていたのか怪我をしていたので、あわてて薬をつけてやった。ある時、耳が血だらけになって帰って来た。医者に連れて行き縫合手術もした。兎角手間がかかる猫だ。傷が広がると困るので玄関に小屋を作り面倒もみた。よくご飯も食べた。耳の傷もだんだんと治ってきたので今夜、野良猫を放すことにした。喧嘩っぽい野良猫四郎は最初に我家へ来た時のようにホタルの小屋の空き箱の中に入った。今夜は少々寒いがその方がストレスも溜まらないだろう。最近、関東大地震の事を書いたが、思いがけない資料にめぐり会えた。寺田寅彦の「柿の種」だ。その中にミケ猫の話が出てくる。「三宅の墓」も作詞作曲、文中にはその楽譜もあった。可愛いな「四郎」、やっと「ネミ」ちゃんも、体中をいっぱいのばしゴロンした。嵐のような三ヶ月であった。
2006・2・26/早朝より雨。この日、城山町の合併を問う住民投票がありました。私はこの日、模造紙にウラジロガシの話を書いて横浜に行きました。神奈川県自然保護協会創立40周年記念参加のためです。会場内には多くの皆さんが集い、活動の紹介や今後に望むこと等報告がありました。若い人もいました。持参した模型を使いながら防空壕の使用法など高校生の話も聞きました。とても刺激になりました。夕方、帰って来ると防災無線でしきりに放送がなされていました。こんなことはいまだかってなかった。最終の投票率は51・65%、合併賛成7115票、反対2642票。
2006・2.14/昨日HPが2万回を数えた。日本一のウラジロガシを守るため夢中でHPを立ち上げ、ここまでこれたのは皆様のお陰です。HPを見て下さる方も多くなり、町内を取材中にお会いすることが多くなりました。、カウンターが再び0となったように自戒を込め、初心に返り、またやって行こうかと思っております。
 我が町を50年も前から精力的に調査され世に出して下さった論文があります。地元の方ではなっかたので連絡の取りようもなく月日が過ぎてしまいました。私は何時か、この論文を多くの皆様に知って戴けたらと思うになりました。このままでは・・・・。論文名は「山間村落と市場・相州津久井郡久保沢町の場合」と云います。どなたかご存知の方がおられましたら是非、ご紹介をお願いいたします。
 本日、仕事でK市に行きました。会社の空スペースを活用して地域のコミニテイセンターを開設しました。会場内には年代別に写真が展示され、それを懐かしそうにして眺めていたお年寄りにもお会いしました。「屋根のない博物館」運動、これからも前進です。何だか大切なことが、分かりかけてきました。
2006.1・29/城山考古学探訪がやっとできた。17才の時、故郷の荒川の河原に「竪穴住居」を復元したことがあった。当時としては珍しく見学の人たちが何人も来た。ヨシを干して屋根に、アカシヤの木を切って柱にした。クズの蔓で編んだ。原型は「坂井遺跡」で志村さんが自力で発掘した住居址だった。1キロ1円で牛乳を運び、そのお金で志村さんの「坂井」と云う本を買って勉強した。既に他界していないが、志村さんが発掘した土器や石器を見せてもらった。その事が昨日のことのように思い出される。今年に入り私は大切な人を亡くし続けた。悲しくて悲しくてしょうがない。昨年の夏から訳あって活動を停止して来た。そのことで何が見えて来るか確かめたかった。お葬式の帰り、K家にオバサンを送ってオジサンに会った。「保坂です」と言っても最初は思い出してもらえなかった。オバサンが「ほたるの」と言ったらニッコリとして下さった。うれしかった。これから先どうすればいいか、何だか分かってきたような気がする。苦労をともにして来た仲間と共にまた活動を始めようと思う。音楽会もしたい。ホタルやカワラノギクも、みんなに伝えたい。

2006・1.11/
暮れに妻がヒヤシンスを買ってきた。水をやると急に花が咲き始めた。最初に咲いたヒヤシンスがどうしたことか横に伸び始めた。「あれ」横に伸びたヒヤシンスにつっかえ棒がある。何も語らない植物、生きてゆく調和か、何か差しのべたい今夜は悲しい。花よ咲け、心ゆくまで咲くが良い。調和など時にはなくてもいいのだ。

 
2005・11・23/
行動の人・最上徳内,城山来る と題してローソクの話を書こうと思ったが、とても欲ばった内容となってしまい時間がかかり過ぎた。ローソクまで辿りつけなかった。期待外れと云った方が良いのかも知れない。兎に角、行動の人でビックリしてしまった。今、「時代は最上徳内のような人物を必要としている」そのことは良く分かった。二男がスキャナー持参で大分へ行っているので資料の掲載ができない。そのへんはもうちょっとお待ちください。それにしても徳内が持参していた蔵書を書き写した松本斗機蔵この人にも降参です。たったあれだけの書名を写すにもかなりの時間を費やしてしまった・・・。徳内が歩んだ時間、神は平等に時間を与えたとだれかが云ったことを思い出す。行動の人は地道の努力の積み重ねなのだ。なんだか言い訳めいたものになってしまいますます反省している。

2005.11.8/町文化祭が終わった。2階ロビーに樹周8・42メートル日本一のウラジロガシの大きさを知って戴くため、実物大の模型をダンボールで作った。始めは何だろうと思いながら近寄ってきたお客様に大きな筒の説明を始めるとみんな異口同音に驚いた。私はこの文化祭でウラジロガシが残ったその大きさを伝えたかった。ありがとう。会場では第3回八木重吉賞に応募された詩が展示されていた。「水のたま」が印象に残った。飯田蛇笏「芋の露連山影を正しうす」も良いが大人にはできそうもない純粋な楽しさがあった。恐らく重吉は精神をも含めた自然の中で、こうして静かに問いかけていたのかも知れない。
   第3回八木重吉賞応募作品から 水のたま


2005・10・25/24日、霜降の日の日の出観賞会の後、大島の神沢不動尊へ行った。前日行ったのに道に迷ってしまったのだ。お蔭で二間もある大きな穀倉を見つけ、更に初期(享和)の頃の秋葉灯篭にも出会えた。庭に洗濯物を干していた奥様がいたのでHP掲載についてもお話させて戴いた。不動尊の前に行くと北海道から帰って来られたというYさんにお会いした。97才の母に会いに来たのだそうだ。昔は、湧き出る水で水車を回し製糸業を営んでいたそうだ。境内に芭蕉の句碑を教わったが何が書いてあるかさっぱり分らなかった。最近、最上徳内について、年表づくりをしている。写真の飛脚姿は箱根三枚橋近くのガードレールである。平成元年頃、歩道を広げるために取り付けた。広田小学校の前の通学路を何とか広がらないか見に行った時の記念写真である。それが今になって役立った。最上徳内(72才)がシーボルト(31才)を見送った場所なのである。二男が研修で大分に行くことになった。アルバイトをしていたMから「お寿司」を注文、ささやかな壮行会を開いた。羽田まで見送りに行こう。今思案中だ。ガンバレ知ちゃん。
 

2005・10.10/7日文化祭の打ち合わせがあり、懐かしい人たちに出会った。ここ数年文化祭に参加していなかったが、日本一のウラジロガシの保存が決まったこともあり、町民の皆様に知ってい戴こうと参加させて戴くことにした。テーマは、ウラジロガシ。樹周8.42メートルとはどの位いの大きさか体感して戴く企画だ。9日、設営場所となる2階ホール入り口に行き、8.42メートルの紐を置いてみました。大きい、実に大きい通路が塞がりそうになった。
 8日は「カワラノギクを守る会」の河又さんに会った。「カワラノギクが自力で生きてゆける環境」が難しくなってきことを真剣に話された。カワラノギクは全国で3箇所だけにしか生息していないそうだ。その内、鬼怒川と多摩川は、国の補助を受けカワラノギクが自力で生息できるよう、保全工事を行なったそうだ。カワラノギクは、もうそこまでしないと自立して生きて行けないのだそうだ。10月2日、城山町小林町長にも現場を見て戴こうと河又さんたちと待ち合わせた。河又さんは海老名から城山まで来て、熱心に保護活動を続けている。私たちは河又さんの涙を無駄にしてはならない。 もう少しするとカワラノギクの紫の花が咲き始める。カワラノギク絶滅させてはならない。

2005・8・22/「山梨県郷土研究入門」と云う本に、恩師清水小太郎先生が書いた「富士川舟運」についての研究方法があった。読むと先生が直ぐそばにいるような気がしてならなかった。思えば5月からいろんな事があった。まだまだかも知れないが考えすぎて痛風にもなってしまった。盆は過ぎたが「相模川舟運」の話が少し書けてほっとしている。先生も奥様もいないが、生前中、私は困ったことが起きると先生の家に遊びに行った。本題は少しも話したことはなかったが私はなでか和らいだ。先生、明日から頑張ります。

2005・8・10/昨日、読売新聞の夕刊、被爆マリア像の写真を見て、私は暫く動けなくなった。そして手を合わせた。今日はポツダム宣言受諾の日だ。ここ数日、取材のため法政大学や「防空送信所回想録」を書かれた橋本様とも電話でお話をさせて戴きました。ひょんなことからS家ではポツダム宣言受諾を送信した木柱の一部を家の柱に使っていることも知りました。木柱にはコールターが塗ってあり製材するのに大変だったそうです。60メートルの柱は木を束ねながらだんだん高くしたとか意外なことも知りました。
 長崎の原爆投下、深夜の御前会議、そしてポツダム宣言の受諾放送(apan accepts Potsdam Declaration(大戸の多摩送信所))。被爆マリア像の前に刻まれた「平和」と云う文字が痛いほど伝わってきました。

2005・7・31/「17年間「ほたると共に」感謝の夕べ」と題して初めての1泊2日で慰労会を行った。場所は津久井湖畔の湖月荘。会員から記念の額を戴いた。うれしい。家に帰ると妻がにんやりとしながら読売新聞のコラム欄に載った宮脇先生の木の事を、「内助の功・・・」、会員は多分さっしてか副賞?の最中も頂いた。夜、お茶を入れ、「おい・・」。夕方、息子と湖畔で見たハゼか夜ライトをあてるとヒレが青白く光った。ノンビリとした一時であった。
    

2005.7.19朝/3日間続いた連休は、「横浜水道」について調べた。安全な水を送る町、あらためて痛感した。また先人たちの長い歴史を感じた。あたりまえのように使っている水、このあたりまえの水もっと大切にしなくちゃと思う。17日、境川を久しぶりに歩いた。散歩に大勢歩いている人を見た。タバコの吸殻が1つ落ちているだけだった。キレイダ。私はうれしくなった。ゴミ拾いをなさっている吉崎さんの家に行った。みんなが汚さなくなったそうだ。川沿いの人たちも吉崎さんがゴミを拾っていることを知っている。ひとりの地道な人の熱意が地域を良き方向に動かしている。

2005・6.28朝/夜から雨、26日「ホタル案内所」を閉館して外で案内をしました。閉館を一様に受け止めその理由を話しました。17年の想いが募る中で最後に「これからも頑張って下さい。」と云われました。有難かった。27日夜、2人の会員から電話が来た。「大学生らしい集団がいるので来て欲しい。ネコもいる。大勢いる。」私はどうしても行く気にはなれなかった。
 八木ほう水の年譜づくりで、城山町史の系譜では倉田葛三の門弟となっているがよく考えると中期を代表する白雄の門弟ではないかと考える。ほう水が何時から俳諧を始めたかその時期により解明されるであろう。雨がだんだん強くなってきた。6.28日6時5分

2005.6.15/雨の中、最後の「ほたる案内所」開所式を行いました。苦渋の決断をしたあとの開所式、開所式といってもたいした事はしません。お茶を飲みながら菓子を食べる程度。今年は目だった企画はまったくありません。閉館の挨拶文の配布だけ。閉館に向け自分の気持ちが高まってゆくのを会員とともに感じた。ホランテアはもう限界だ。今度は新しい人たちにやってもらおう、でないかも知れない。外に並んだ「草花・野菜苗」は17年と云う永い間、活動を支えて下さった皆様への感謝の気持。「ほたるさん静かにできなくてゴメンネ」

2005・5・17/ウラジロガシのことについて国土交通省へ御礼に行きました。夕方「加藤武雄文学碑」の撮影に行きました。平成9年2月に植えたエノキが柔らかな葉をつけていました。オオムラサキが増えるよう、「オオムラサキの里」をつくろうとみんなで植樹をした場所でもありました。
 この日、私は大きな決断をしたことを報告するために町や県を訪ねました。小松川本流での「ほたるの里」づくりを撤退したことの報告です。幸い地元に「守る会」が誕生、将来が展望できたのでここらへんで・・・・私の正直な気持ちは疲れた。の方がよいのかもしれない。悲しくなるような暑い日、まだ草刈機も買えない頃、鎌で背丈ほどに伸びてしまった草を刈るときは泣けました。会員が「もう辞める」と言い出した時もありました。体調を崩してしまった会員もいました。草刈、ほんとうに大丈夫だろうか、いつも自問自答していました。これからは災害のことも考えなくてすむのだと。
 川に対する考え方も発足当時と比べ変わりました。また「野焼き」の廃止などボランテアはもう限界です。やがてホタルの季節となりますが今年は6月15日から25日までの10日間だけにすることも決めました。年間1万人ものみなさまが訪れる「小松ほたるの里」もう限界です。どうか皆様、堪忍して下さい。
 私が、この大きな決断をし訪ねた最後は、もう何年も来ていなかった加藤武雄文学碑でした。忘れかけていたエノキが柔らかな葉をつけていたのです。私はそれだけでうれしい。自然をこよなく愛するみなさん、どうか分って下さい。17年間の草刈、「ほたるの里」づくりをさせて戴きありがとうございました。
2005・5・15(日)/読売新聞34面、週間ダイジェスト欄にイラストが掲載されました。ほんとうにすばらしい決定にあらためて感謝しています。
 稲荷社はなくなりましたが、人々に幸せを施す木として、日本一のウラジロガシとして今後も守られて行くことでしょう。
 本日、国際児童文学館にリンクさせて戴きました。昨年、日本財団の助成を受け「「君よ知るや南の国」が「日本の子どもの本100選」戦前編に選ばれました。今後も更に調査を続け後世に伝えて行きたいと思います。

 
2005.5.4/4月16日、取材であきる野市の大悲願寺に行きました。伊奈石の産出の状況を確認したくて行ったのですが境内の看板の中にに「伊達政宗の白萩文書」と云うのがありました。
 昨日、大山道を多分この辺かなと辿りながら相模原市九沢の梅宗寺と云う寺に行きました。観音堂の中にはたくさんの石仏が置かれてありました。「わァ・・・」私は驚いてなりふりかまわず門をたたきました。館盛前相模原市長さんの家だったことにも驚きましたが、それ以上に萩が「南山禅師」顕彰碑の隣に植えられてあたのです。仙台藩ゆかりの萩だったのです。時空を超えて対面ができました。
     
2005.4.30/PCのキーボードが壊れてしまい修理に出していました。畑にトマトやナスを植えました。堆肥を戴きに無料券を持って農家の家に行きました。牛小屋に牛がいました。何だかやたら懐かしく牛の首をなでてあげました。喜んだ〜〜〜〜♪〜〜〜。「もっとやって〜」って言ってるかな。ウラジロガシの保存の計画が正式に発表され何となくほっとしています。この1年で頭が随分とハゲてしまいました。「まーいいか」イノシシさんがウシさんになったよう。 これからも宜しくお願いします。

2005・3・5/HP開設してから10000回を数えました。みなさまのお陰です。感謝しております。HPの作成にあたり、あらためて町内を歩きました。次から次へと疑問が浮かんできました。まだ写真ばかりで内容の解説までできておりませんが、これから先、みんなで疑問点を出し合いながらやって行けたらイイナ・・・なんて考えております。情報を共有しながら、これからもみんなで楽しくやって行きましょう。今後共、ご指導ご鞭撻を宜しくお願いします。ありがとうございました。

2005.1.30/昨年2月1日、HPを開設して満1年を迎えることができました。その間、多くの皆様方から暖かなご支援を頂き開設してよかったなと思っております。念願の日本一番のウラジロガシの保存も決まり、25日には天然記念物指定のための要望書も提出することができました。屋根のない博物館運動は多くの皆様に支えられております。平成元年、町が募集した城山ホタル研究会募集要項の考え方を更に普及するため、平成6年、エコミュージアムの先進地山形県朝日町に視察、城山町の将来を見据えた「屋根のない博物館運動」を提唱してきました。そして11年と云う歳月を経て、本日、山形県朝日町様とリンクをさせて戴きました。

2004.12.16/台風22号、23号等、今年は各地で自然災害が多く発生してしまいました。境川には大量のゴミが残されましたが多くの人達が集い清掃作業を行なうことができました。感謝をしております。ただ問題もありました。川を管理している所、ゴミが流れ出る所の違いから行政側の対応に違いが見られました。今後は流域協議会のような組織作りをしないと無理??かなとも思いました。ご苦労さまでした。さて、立川駅北口にあるエンジュの木を紹介してきましたが、突然枝が切られました。いつもなら30分ぐらいで着地していたハクセキレイが枝が少なくなったため止まれなくなったのです。秋から春にかけ集団で暮らすハクセキレイにとって受難の時代となりました。理由はともあれ、人間社会と生き物たちがうまく暮らす方法はないのでしょうか。

2004.9・30/今は休耕田になってしまった田んぼにイトトリゲモと云う貴重な藻が生息している情報が寄せられました。田んぼの写真を北側から南に向かって撮りました。タンポポやハハコグサ→セリ→カヤツリグサ→イ→クレソンと云うように1年で随分と環境が変わってしまうものだなと思いました。詳しいことは分かりませんが藻類についても再調査を行いながら掲載してゆきたいと思います。

2004.9.28/全国巨樹・巨木林の会に招かれて9月24日〜9月25日まで、兵庫県柏原町「第17回 巨木を語ろう全国フォーラム」に参加させて戴きました。
 伐採から保全へ、ウラジロガシが残った話を全国の皆様にお話をし、また運動を支えてくださった全国巨樹・巨木林の会のみなさまへの感謝の旅でもありました。そして地元のみなさまの暖かな歓迎、人情にもふれました。子供たちから発信した「フォーラム宣言」を今、かみしめているところです。ありがとうございました。

2004・7.11/ホタル案内所を本日を持ちまして閉館いたします。約1万人の皆様が「小松川ほたるの里」を訪れて下さいました。事故もなく終わることができホッとしております。ありがとうございました。館内ではウラジロガシについて特集いたしました。実際のウラジロガシやアラカシの葉を手にしてみて、どうしてイチイガシと間違ったのだろうやっと思えるようになりました。夢中で過ごした10ヶ月でした。「八木重吉さんの詩をかこう」子供たちの創作詩も加わりました。18日、小松川の草刈を行います。

2004.6.26/小松川にヤマベがいました。今年は境川合流地点までホタルを見ることができました。6月に入りHPが検索できるようになりました。ホタルのこと原宿用水のことなど様々です。日々勉強です。みんなで一緒に考えながら歩んで行きたいと思います。ウラジロガシについては町会議員さんのご好意で看板もできました。動き出しているそんな気がしています。
2004.6.9/ 朝から、ほたる案内所の準備を始めました。田んぼには川尻小の子供たちが「田植え」の下見に来ました。 今年のテーマはウラジロガシが保存されるまでを主に新聞記事を中心にまとめました。また他のカシ類についても学習できるよう葉型から検索できるよう工夫しました。最近つくづく思うのですが同じ木でも葉の形が微妙に違い判別に大変苦慮、大島の諏訪神社には確かめるために何回も足を運んでしまいました。
  また昨年に引き続き「八木重吉詩の世界」も企画しました。
2004.5・15〜16/いよいよほたるのシーズンが始まります。準備をみんなでしています。センダン、コスモス、カワラノギク、マリーゴールドなど鉢植えしました。本日は雨の中、かなくぼ谷戸の観察台の修繕を行いました。本年は、昨年に引き続き「八木重吉、詩の世界」を企画いたします。そんな折、14日にNHK朝のテレビ番組「天花」の中で重吉さんの詩、「光」と「花がふってくると思う」が登場しました。しかもプラザ中野さんが歌う、歌になってです。リンク集を作りました。
2004.5・13/中沢地区にある東海自然歩道の看板を清掃しました。緑色の藻が大量に付着していました。
2004.5.5/連休最後の日は雨となりました。1月からいろんな事がありました。ウラジロガシはお陰様で保全されることになりました。ほんとうに良かったと思っております。ある新聞社の支局長さんとお話させて戴いた時、こんなことをおっしゃって下さいました。「争いにならなくて良かったね」と、私は救われたような気持ちになりました。
 原宿地区で毎年行われている「こかげさんまつり」に偶然立ち会いました。20名の女性が集まって念仏が唱えられました。相模原市では「徳本上人念仏碑」が民俗文化財に登録されました。城山町の文化財保護条例には未だ民俗文化財条項すらありません。また、あるお寺では「津久井○番 観音霊場○○」と記された江戸時代の石碑が突然なくなりました。
 文化を継承し後世に伝える。平成6年からスタートした「屋根のない博物館」まだまだやらなければならないことがあります。これからも「みんなで楽しみながらやって行こう」そんなふうに思っております。   雨音が聞こえる 重吉さんは 夜のほたるを息のようだと云った。
2004.4.7/ 3・31 国土交通省より報道発表があり、ウラジロガシが保存されることになりました。応急処置として4月中旬より支柱を建てて下さることになりました。多くの皆様の御支援と国土交通省の御英断に対し深く感謝申し上げます。ありがとうございました。4月2日、全てではありませんが関係機関に対し御礼のご挨拶に上がらせて戴きました。この日ウラジロガシの晴れ姿をやっと見たような気持ちになりました。本日、花の甲州路を訪ねました。
2004.3・11/夕方、津久井湖「水の苑」に若山牧水の奥さんである喜志子さんの歌碑を見に行きました。私が結婚した頃、息子の旅人さんを訪ね取材に出かけたことがありました。佛前には喜志子さんの大きな写真が掲げられてありました。立川駅はその後大きく様変わり、牧水の歌碑を眺める人もいなくなったような気がします。今は無味乾燥なコンクリートの上に歌碑だけがぽつんとあるだけです。「立川の駅の古茶屋 さくら樹のもみぢのかげに 見送りし子よ」、昼、ウラジロガシの保全を求め加藤町長に面会しました。牧水夫妻はその加藤家に何回か来られたようです。
 旅、酒、自然をこよなく愛した牧水の人生観とは何だろう。高速道路が完成した時の景観を想定してみる。草が生えたら草を刈り、箒で道を掃いてもいい。それが「自然」ではないか。牧水の故郷、宮崎県南郷町そこには切り立った山と清流がある。
2004.2・29/念願の地図がやっとできました。時間がかかり大変疲れました。 
2004・2・21/スギのアレルギーが始まりクシャミ散々です。病院の帰り道、津久井湖畔で美味しいソバを食べました。ウラジロガシの話になり道を聞かれたとか、今度は「日本一のウラジロガシ」のパンフレット作ろうと思います。
2004・2・14/  しろやまの石仏たちの写真を追加しました。写真を撮影する度に風化の影響を受けているのが良く分かります。中には倒れそうになっている石仏も見られ心配しています。
2004.2・1/ 昨年秋よりさがみ縦貫道法面にあるウラジロガシを守ろうと保存運動を始めさせて戴いた所、各方面の皆様方から激励のお電話やお手紙を頂戴し感謝にたえません。前から何となく考えていたホームページをこの際勉強を兼ねながら早急に立ち上げようと思い立ちました。内容はまだまだ不充分ですが皆様方から御指導を戴きながら更に充実させて行きたいと考えております。よろしくお願いします。
 時は緊急を要しております。インターネット網を駆使し日本で一番となったウラジガシが伐採されないよう皆様方の御声援をよろしくお願いします。
 尚、ホームページ作成上、鎌倉八幡宮大銀杏の写真を神奈川新聞社、カワラノギクは川又猛様、カット類につきましては「あくびのじかん」社様、城山町文化財保護条例につきましては町のホームページよりそれぞれコピーさせて戴きました。
  本ぺージより深く感謝申しあげます。ありがとうございました。 保坂記

    
     ウラジロガシのドングリ 
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