川尻八幡宮境内の翁塚(おきなづか)と副葬品について。

2017・12・6 逸見敏刀著「無良佐岐」関連部分を追加する。
はじめに
 川尻八幡宮の境内やその周辺には無数の古墳群が見受けられます。八幡宮の南側、山の斜面には「春林古墳群」が連なっています。昭和3年発行の「無良佐岐」にも「昔から数個の穴が開いたとは土地の古老の話であったが」と記述されています。私も、神社の裏側に住んでいた故中島福松さんからも、神社の奥には「昔は烽火台の石の囲いがあった」また、石組みもあったことをお聞きしています。
 社務所内には翁塚から出土した副葬品の写真や発掘者への「感謝状」も掲示されています。しかし、残念なことですがその副葬品の数々は、現在のところ行方不明の状態です。
 私は、所在の不明なことは確かであり残念なことではありますが、こうした先人の遺された記録から、当時の状況をある程度まで再現できるのではないかと考えています。
 最近では、南側の周辺部(苦久保遺跡)から朱や釉薬を施した土器や陶器類等も出土し一躍脚光を浴びています。この項では、発掘当初の貴重な資料をご覧いただきながら、今後に於ける神社史研究の一助となれば幸いです。
     「現在のところ行方不明の状態です。」神奈川県埋蔵文化財センタでも確認出来ず 2018・1・18 
                            撮影 2005.1.15
  


 
                   川尻八幡宮二の鳥居前 細長い石は翁塚の蓋石か

 
  川尻八幡宮二の鳥居前の細長い石      翁塚古墳の葺石

 
  「無良佐岐」(非売品)
   第二号 
   逸見敏刀著
   発行 昭和三年五月

資料 逸見敏刀著「無良佐岐」から
「穴を尋ねて」(の中の「小松ヶ岡古墳」の部分の全文)
◎小松ヶ岡古墳本年(昭和三年)一月五日、これより前、神奈川縣津久井郡川尻村に古墳が発見され、数口の長刀も発見されたと聞いたので、此日、浅川の設樂氏とゝもに地方に出掛けた。先づ発見者神藤市松氏を訪ふたが一足違いに外出された後であったので発見当時の模様等を聞く事が出来なかったが、発見の遺物等を拝見して現場へ行く。墳の所在地は現在村の氏神八幡神社の鎮座する、小松ヶ岡と呼ぶ一小丘陵の上で、恰度(ちょうど)神社の斜裏に当る位置である。墳の形式は地下式の一種で、穴を地下に掘り四周の壁は梢長楕円形の自然石を
以って積み上げ、上部になる程その持送りの度を強めて行きやゝ太い石を天井石として用ひたものらしい。私が見た時は天井石は皆のぞかれてしまっていた。底には径二、三寸位の扁平な自然石が敷詰められていた。この種の類例は近い所では、西多摩郡多西村瀬戸岡群集古墳、又去年初冬御陵参道の傍で発見したもの(多麻二巻一号拙稿、横山村中郷発見の古墳に就て参照)等と同類向のものである。尤もこの墳は私が見た時にはまだ全部の発掘は行はれず、奥壁に接した部分全長の約二分一弱位しか発掘されてゐなかった。今その現れてゐる部分だけの寸法を記すと奥壁下部三尺一寸、上部二尺八寸、西側壁約六尺、深さ(多少上部が破砕してゐないかと思ふが現存する上部から側壁上部から)三尺四寸を算し得られた。(第一図参照)

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 (北西方向)

(東南方向)
第一図 墳平面
 此度発見のものはこれ一個であるが、昔から数個の穴が開いたとは土地の古老の話であったが、思ふに瀬戸岡のそれの如くこの丘
一体に多くあったものであらう。現にこの附近から第三図の如き埴部土器を○○○○○○○○される。

 この墳から発見されたものは直刀三口、刀子二口、宝珠形鐔(つば)一ケ、尖根(とがりね)式剣形鉄鏃(てつぞく・やじり)三十本、鞘口金物一ケである。(四図参照)尚同所から砥石が一箇(小片)出たと云ふがこれは後に混入したもので無論其の時期のものではあるまい。この墳の年代は瀬戸岡、中郷のものと同様にそれ程古く遡る事は出来ぬのであらうと考へる。


「無良佐岐」(非売品) 第二号 逸見敏刀著 発行 昭和三年五月
川尻八幡宮
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雨水と霜降の日の出観賞会 2月19日と10月23日
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