川尻八幡宮境内の翁塚(おきなづか)と副葬品について。

2017・12・6 逸見敏刀著「無良佐岐」関連部分を追加する。
2020・3・26 青木純造著「武州境界奥部に於ける石器土器の分布に就て」を追加する。
はじめに
 川尻八幡宮の境内やその周辺には無数の古墳群が見受けられます。八幡宮の南側、山の斜面には「春林古墳群」が連なっています。昭和3年発行の「無良佐岐」にも「昔から数個の穴が開いたとは土地の古老の話であったが」と記述されています。私も、神社の裏側に住んでいた故中島福松さんからも、神社の奥には「昔は烽火台の石の囲いがあった」また、石組みもあったことをお聞きしています。
 社務所内には翁塚から出土した副葬品の写真や発掘者への「感謝状」も掲示されています。しかし、残念なことですがその副葬品の数々は、現在のところ行方不明の状態です。
 私は、所在の不明なことは確かであり残念なことではありますが、こうした先人の遺された記録から、当時の状況をある程度まで再現できるのではないかと考えています。
 最近では、南側の周辺部(苦久保遺跡)から朱や釉薬を施した土器や陶器類等も出土し一躍脚光を浴びています。この項では、発掘当初の貴重な資料をご覧いただきながら、今後に於ける神社史研究の一助となれば幸いです。
     「現在のところ行方不明の状態です。」神奈川県埋蔵文化財センタでも確認出来ず 2018・1・18 
                            撮影 2005.1.15
  


 
                   川尻八幡宮二の鳥居前 細長い石は翁塚の蓋石か

 
  川尻八幡宮二の鳥居前の細長い石      翁塚古墳の葺石

 
  「無良佐岐」(非売品)
   第二号 
   逸見敏刀著
   発行 昭和三年五月

資料 逸見敏刀著「無良佐岐」から
「穴を尋ねて」(の中の「小松ヶ岡古墳」の部分の全文)
◎小松ヶ岡古墳本年(昭和三年)一月五日、これより前、神奈川縣津久井郡川尻村に古墳が発見され、数口の長刀も発見されたと聞いたので、此日、浅川の設樂氏とゝもに地方に出掛けた。先づ発見者神藤市松氏を訪ふたが一足違いに外出された後であったので発見当時の模様等を聞く事が出来なかったが、発見の遺物等を拝見して現場へ行く。墳の所在地は現在村の氏神八幡神社の鎮座する、小松ヶ岡と呼ぶ一小丘陵の上で、恰度(ちょうど)神社の斜裏に当る位置である。墳の形式は地下式の一種で、穴を地下に掘り四周の壁は梢長楕円形の自然石を
以って積み上げ、上部になる程その持送りの度を強めて行きやゝ太い石を天井石として用ひたものらしい。私が見た時は天井石は皆のぞかれてしまっていた。底には径二、三寸位の扁平な自然石が敷詰められていた。この種の類例は近い所では、西多摩郡多西村瀬戸岡群集古墳、又去年初冬御陵参道の傍で発見したもの(多麻二巻一号拙稿、横山村中郷発見の古墳に就て参照)等と同類向のものである。尤もこの墳は私が見た時にはまだ全部の発掘は行はれず、奥壁に接した部分全長の約二分一弱位しか発掘されてゐなかった。今その現れてゐる部分だけの寸法を記すと奥壁下部三尺一寸、上部二尺八寸、西側壁約六尺、深さ(多少上部が破砕してゐないかと思ふが現存する上部から側壁上部から)三尺四寸を算し得られた。(第一図参照)

   ←
 (北西方向)

(東南方向)
第一図 墳平面
 此度発見のものはこれ一個であるが、昔から数個の穴が開いたとは土地の古老の話であったが、思ふに瀬戸岡のそれの如くこの
(きゅうふ)一体に多くあったものであらう。現にこの附近から第三図の如き埴部土器を□□□□□□□□される。

 この墳から発見されたものは直刀三口、刀子二口、宝珠形鐔(つば)一ケ、尖根(とがりね)式剣形鉄鏃(てつぞく・やじり)三十本、鞘口金物一ケである。(四図参照)尚同所から砥石が一箇(小片)出たと云ふがこれは後に混入したもので無論其の時期のものではあるまい。この墳の年代は瀬戸岡、中郷のものと同様にそれ程古く遡る事は出来ぬのであらうと考へる。


   
 (きゅうふ);おか。小高い山。

検討資料/青木純造は、明治32年11月20日(発行)、「東京人類學會雑誌第百六十四號」に「武州境界奥部に於ける石器土器の分布に就て」と言う論文をを発表しました。
 論文は大きく、「緒言」、「東の部」と「西の部」の三部作で、西の部第四項に、津久井郡川尻村出土の状況を報告されました。その中の三番目に、川尻八幡宮の地から刀剣の破片が発掘されたことを報告しています。当時はまだ、「翁塚」と云う名称がなかったので、「石の内より」とあっても、それが直ちに「翁塚」からの出土した刀剣だとは断定できません。本殿奥に広がる一帯は春林古墳群に指定されている地でもあり、未だどこかに古墳のあることが想像できます。私自身、古老から他に古墳のあったことを聞いています。(以下原文をそのままに記す。)
「武州境界奥部に於ける石器土器の分布に就て」
(四)
(同)國津久井郡川尻村町有、畑地一丁歩計り土器の小破片散布するを見る殊に八木庄兵衛所有地に多し此の道路上にて打製石斧五箇石棒破片一箇土器破片を採集せり(西方へ一里)
(同)所杢代勘四郎は五年前水車建築の際地下五尺より完全なる素焼きの瓶を發掘せることありと詳細尋ぬるに祝部なるが如し此地水越正義氏が報告せる行昌寺と境川を隔つるのみ
川尻村八幡の地より五年前石の内より刀劍の破片を発掘せりと小林七郎左衛門云へり
(同)所八幡宮と久保澤街道の中間に位する畑中に直徑貳間の塚あり
(同)むら小松に寶松寺なる古寺あり茲に正嘉二年永和二年と記るす古碑二基あり應永十七年と記する石燈籠あり
(略(明治三十二年七月七日相原に於て) 
参考;水越正義が「東京人類學會雜誌 14 巻 161 号p. 421-424」に「武藏國南多摩郡堺村に於て發見の石世期遺物井に古墳に就て」を発表する。  明治32年8月20日 発行 p. 421-424 末尾に(明治三十二年七月七日相原に於て)とあり

「無良佐岐」(非売品) 第二号 逸見敏刀著 発行 昭和三年五月
川尻八幡宮
武蔵国一宮成立の前夜 龍籠山を基軸に、だれも知らない方位線
雨水と霜降の日の出観賞会 2月19日と10月23日
明治初期・川尻八幡宮の景観図から
川尻八幡宮の起源、1100メートルも続く参道の不思議を考える
川尻八幡宮・「一之鳥居」再建物語

戻る