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多摩の自然 1968・6 第21号 |
はじめに
昭和40年代になると、相模原市の人口が急増、宅地化が進みました。
相模原台地はかつて「相模野」と呼ばれていた入会野で、むやみに人の入ることのできない厳しい掟がありました。
そのため、或る意味で、「自然環境が守られてき来た。」と云っても過言ではないでしょう。
そうした環境の中で、柴胡は生きていたと思います。
植物学者の金井茂は自らを柴胡庵と名乗り、サイコをはじめ数多くの研究論文をこの世に残しました。その多くは、ご遺族によって相模原市立淵野辺図書館にご寄贈され現在に至っています。
掲載した「多摩の自然 1968・6 第21号」は、金井茂が「津久井郷土資料館」の初代の館長をされていたことから、その書棚に何気なく置かれていたと思う綴りの中にありました。そうして私は「これは」と、思いながらも何もできずに、只、コピーだけを残して時が過ぎて行きました。
私は、昭和50年代に、相模原市から「ミシマサイコ」の種を戴き、育て |