「相模原の「柴胡」の始末記」を読んで

2019・1・31 作成

多摩の自然 1968・6 第21号
はじめに
昭和40年代になると、相模原市の人口が急増、宅地化が進みました。
 相模原台地はかつて「相模野」と呼ばれていた入会野で、むやみに人の入ることのできない厳しい掟がありました。
 そのため、或る意味で、「自然環境が守られてき来た。」と云っても過言ではないでしょう。
 そうした環境の中で、柴胡は生きていたと思います。
 植物学者の金井茂は自らを柴胡庵と名乗り、サイコをはじめ数多くの研究論文をこの世に残しました。その多くは、ご遺族によって相模原市立淵野辺図書館にご寄贈され現在に至っています。
 掲載した「多摩の自然 1968・6 第21号」は、金井茂が「津久井郷土資料館」の初代の館長をされていたことから、その書棚に何気なく置かれていたと思う綴りの中にありました。そうして私は「これは」と、思いながらも何もできずに、只、コピーだけを残して時が過ぎて行きました。
 私は、昭和50年代に、相模原市から「ミシマサイコ」の種を戴き、育て
て見ましたが、発芽に失敗し、こちらも、そのままになってしまいました。そのことが忘れられず、何時かまた育てて見たいと思う日々が続いています。
 下記に記した「相模原の「柴胡」の始末記」は、金井茂の柴胡に寄せる感動がそのまま読者に伝わってまいります。
 自然のままの柴胡はどこかに未だ生き残っているのでしょうか、それとも、
 研究者としての純粋な気持ちを感じ取って戴けましたら幸いです。 

相模原の「柴胡」の始末記
 (全文) 会員 金井茂
 新編相模國風土記には相模の貢物≠ニして南部海岸地帯では「松露」を出し、北部高台地方では「柴胡」を出した。と書いてある。
 現在の相模原市の大部分が置かれている所は、いわゆる地理学上で「相模の台地」と呼ばれている、高乾な大台地である。橋本の広い平地ー相模原ー淵野辺ー小田急沿線の大平地ー大和市ー藤沢まで一続きの台地になっている。この相模野台地が古くから貢物の中心産地になっていた様である。であるので相模野の別称も柴胡原というのである。

 渡辺崋山の『遊相日記』に「境川を渡って鶴間の広原に出たが、この広野は古来柴胡を産したので柴胡原という」と書いてあるが、相模高台の平地が柴胡の一大産地であったようだ。読売新聞は、その神奈川版に「相模の動植物」なる連載読物を揚げている。それはここ一ヶ月位の継続になっているが、神奈川県各地の「名物的動植物」が毎日挙げられているのである。
 近頃各地とも都市化が進んで片っぱしから自然がこわされ、「心あたたまる風物」が姿を失い、人の生活はややともすれば自然から遠ざかろうとする傾向にある時、せめてこの読物は読者の心を自然に向けて呉れる契機となって呉れるものであるので読者に喜ばれているのである。こんなわけで「神奈川各地の虫が、草が」競争で紙面に出て来ると、古来「柴胡の本場」と自在している相模原市では、この草を是非「郷土名物」として読売新聞に出したいのである。こうしたいきさつから「柴胡始末記」を書くことになったのである。
 @柴胡という植物
 柴胡。さいこと呼ばれる植物は数種ある。曰く「かまくらさいこ」「まるがさいこ」「すずさいこ」「かわらさいこ」「しやぐまさいこ」である。しかし「しやぐまさいこ」の如きはこのよい名より「おきなぐさ」と呼んだ方が本名で、一般の人この呼び名の方に親しみをもっている。この「さいこ」の本尊様というか、代表者といっていいかーとに角「薬草」として最も価値あるものが「かまくらさいこ」で別名を「みしまさいこ」と呼ばれているものである。他の「さいこ」はこの「かまくらさいこ」にどこか一つ位、例えばそれと科が同じで花の様子が似ているとか、又は葉の形が似ているとか、全体的によく似ているからとか、薬草として主に使用される根の形が似ているとかで「何々さいこ」と呼ばれるようになったのだという。例えば「まるばさいこ」は「かまくらさいこ」と全科で花の形、花序の形が似ているし、「かまくらさいこ」「おきなぐさ」は根の形が似ているからだそうだ。「おきなぐさ」は「うまのあしがた科」であり、「かわらさいこ」は「ばら科」であり、「すずさいこ」は「かがいも科」であって、「かまくらさいこ」が「にんじん科」に属しているとは全然異るものである。これ等「さいこ」の一つ一つについて形態や性質について説明する必要もない程に皆様充分に御承知の事でしょうから省略する。
「かまくらさいこ」とは相模国本位に相模の人達が主唱的に呼んだものであろうか、また例え駿河、伊豆地方の人達本位に呼んだら「みしまさいこ」という名前もつけられている。
 A相模原と柴胡
 江戸の植物といえば「江戸むらさき」即ち武蔵野の広野に生える「むらさき草」であり、これは古来あまり有名である。江戸名物、武蔵野名物むらさき草といえば「花はどんなであるか」「美しい草か」すぐに質問が来るが、相模原の人達からも「花の美しさ」や「姿の美しさ」を質問される。私は云う「名前の方が先き走ってしまって花や姿もそれにふさわしいものと思うでしょうが、本物は極めて平凡な姿です」と。
 「かまくらさいこ」は「解熱剤」として利用されたようで、根部を主として使用した。古い俳句に「村雨を背中に受けて柴胡掘り」というのがあるというが、これはどこで柴胡の掘り取りをやって居る情景を読んだものか知らないが、昔は相模野でも盛んに柴胡掘りをやったらしい。相模原市史編集が始まった折、市内で史料聚集をやったら、麻溝地区の堀之内部落辺から「柴胡掘り」に利用した道具が発見された。土地の人は「せいこ掘り」と称しているが丁度柄付の「山芋掘り」の道具の様な形である。こんな相模原と因縁浅からぬ「さいこ」であるが近頃相模原市ですっかり低地林や山林が開発されてしまって、住宅も建て込んでしまったので、もう容易に「柴胡」の姿を見つけることは出来ない。市民の中でも、この植物の姿を知る人は少ないのである。
Bさいこ探し
 読売新聞の「相模の動植物」が話題として取りあげて来始めると「君さいこを採った事あるか」とか「標本を見たいが」「相模原のどこへ行ったらとれるか」と小生の顔を見ると聞いてくる人もあった。始めのうちは「何のために」たずねるのか知らなかったが、後になると市役所首脳部の方々がこの植物を探し出すのに骨折っているのだということを知った。そんな質問に小生は答えた「相模原中を探したら或は有るかも知れない、また無いかも知れない。今すぐ出かけて行ってすぐ見つかるかも知れない。あるいは三日探しても四日探しても見つからぬかも知れない。私も近頃は相模原中を採集して歩かないので、しばらく留守していたので保証することは出来ない。かつてここいら近辺を歩いて採集した植物標本は全部相原高校生物標本室に置いて来てしまった。それにそれは「古くなって虫がくってしまったでしょう」とどうも冷淡な回答だがこうするより外なかった。もう相模原市内に 残る山林を歩いても「かまくらさいこ」の姿を見つけることは出来まい。昭和三十年頃まだ橋本の山林の中に大砲弾などがすててあって終戦の姿が残っていた頃その山林内で植物採集をした時「まるばさいこ」の株を見つけた事があってそれを根掘りして相原高校の薬草見本園の片すみに植付けたことがあるのを思い出すが、比較的多かった「まるばさいこ」すらも容易に見付出すことが出来ない程、相模原の低地林も切り開かれ、大きく変って市街地化してしまったのである。こんなわけで「かまくらさいこ」の姿も見つけるに困難になってしまったので、そこで素人は次の様な疑問をもつのである。
@昔は貢物に出したという程多かったものならば今でも多少は残っていてもようはずである。
A残っていないところを見ると昔から多くなくて、むしろ栽培していて、それを出したのではないか。
B開発位の環境の変化で、すっかり無くなって了うものか。
  即ち絶滅の原因は人が多く取り過ぎた為か、環境の変化に応じられない程、この植物は弱いものか。
C栽培品を出したものならば、この植物は栽培に耐え得るものなのか。
  等々色々考えさせられるがーよく人にきかれるがこれには私も答えることが出来ない。
 相模原市の助役高橋保氏はかつて、お若い頃から植物に特に関心をもって居られ、平塚農学校できたえた腕で数々の植物をこなされて、菊栽培なんぞは堂に入った名人。最近は自分の屋敷を市のために役立てたいと、広面積に「カンナ」を植込んで、自ら手入れされ、その苗を無償提供して、市の主要道側に植えこんで「花の相模原市」を建設するのだと、やっていられる。助役のこの美挙が最近の新聞面に掲載されて「花の助役」と市民だれからも讃えられたのである。また、収入役小川通幸氏も高橋助役にまけない植物専門家で、相模原農蚕学校から農業教育専門学校と植物に縁の近い勉強をさされたので満州国に赴任して課長になると「通北省の植物」なんぞという「足で探した満州植物採集記」なんぞを母校「農蚕新聞」にのせる程、この方面に筋金が入っているのである。このお二人がさきに立って「相模原のさいこ」を新聞に出して「市民にこの植物を知って貰おう」と「さい胡探しを始め」られたのである。その「柴胡探し」をするかたわら「出て来い」と小川氏から知らせがあったので一日市役所に出向いて色々とお話したが、結局筆者が「八王子自然友の会」の紹介をし、高尾山や陣馬山或は丹沢山あたりを探すに当って、この会の幹事である菱山さんや畦上さん等の御協力を願ったならば、これ等の驚学者はそれ等の山々の一木一草の分布を熟知していられるので、或は「生きた標本」が得られるのではないかと相談し、その場で八王子高校に電話し、菱山忠三郎氏の御出馬御協力を得ることになったのである。筆者は家に帰り今は散失して数少くなったが、残っている標本の中に若しや「かまくらさいこ」の標本がないかと標本保存箱を探したら幸せことにその中に「たしかに」有ったのである。それについても随分古く、そうしてなつかしいものである。標本の名箋を見ると、「採集場所・・相原村橋本の平地林」とあり「採集年月日・・昭和九年八月三十日」とある。思えば相模原が町でも、市でもなく個々ばらばらだった相原村の時代。そうして橋本の今の小原光学の工場のあるあたりの平地林の中。そこで採取した標本だった。これがあったので、「鬼の首」でもとった気で翌日、市役所に持参して、読売の記者さんに「標本が見つかりこれでいいだろう」と申し上げると、どうも標本では「物のやくにたたず」新聞に出すためには「生き生き」としたものを欲しいということで、どうしても「生きた実物」を欲しいし、どうしてもそれを探し出さなければならないことになったのである。しかし筆者の古い標本でも、けっこう「御やくに立った」のである。先ず第一に「かまくらさいこ」について絵だけで見ていた人に標本を見せることが出来たこと、「これが柴胡」か、と随分多くの人が私の標本に見入って呉れた。第二に「この植物がたしかに以前はこの原に有った」という証明になった。市長さんは「この標本によって皆様に柴胡を見ていただこう」と市長室に歿収されて「宣伝用」に使用されるとかで、「たった一枚だけ」の私にとっても貴重で手元に留め置きたいのは山々であるが、「御奉公」の為に差出す事にした。先ずこんなにして数回小川収入役のもとに参上して、「八王子自然友の会」と連絡出来て、いよいよ「さいこ探し」に出かける場合、いかなる陣容で、どんなものを用意して、出かけようか等、出動準備を計画していたがー計らずも柴胡をついに得ることが出来た。
 九月二十七日、八王子自然友の会の菱山忠三郎氏から小川収入役の所に電話があったのである。「陣馬山で柴胡が見つかったので採集し、自宅に保存してあるので、自宅に来るように」と、まったく有難いお話である。やっかいな事を御依頼申上げて申訳ないと思っていたが、それをいとわずわざわざ採集までして下さるとは、まったく余人には出来ない話で、まったく御親切で、学問に御熱心な菱山さんでなければ出来ない話である。さっそく当日、市から車を都合していただいて小川氏、赤間読売新聞記者、NHKの白石氏、それと車運転の大口善治氏、柴胡庵がお伴で一行五名で恩方に出かけたのでである。菱山家は恩方の旧家名家である。流石に、お住居はお広い。その広いお庭に菱山忠三郎氏お手のものの、山草、野草が一ぱい植込まれている。さながらお庭が、珍草、名草園である。氏はそれを指示されて「この草はどの山でとって来た」とか「この草は珍らしい草だ」等々と一々説明して下さる。筆者にも「名前だけは知っていて是非実物におめにかかりたい」とかねて思っていた草のいくつかに、はからずもここでお目にかかることが出来たような草もあって、まったくー一同菱山氏の「御熱心」と「驚学」とに深く敬意を表すると共に「よいもの」を拝見出来たことを喜んだ。お庭には「ほたるさいこ」や「すずさいこ」が数株すでに植付られていた。
(スペース)赤間さんは大変よろこんでこれを盛んにフイルムにおさめた。やがて菱山氏は鉢植植物数鉢を出された。まるばさいこ二鉢、すずさいこ二鉢ある。かまくらさいこはいくら探しても、この附近では見つからなかった。まことに残念だったが、これは更に探しましょうが、これだけ相模原市に寄付するからおもち帰り下さい」と、まったく「たなぼた式」のお言葉で、探していただいたり、実物をいただいたり、まったく御厚意ありがたく頂戴した態になって一同恐縮した次第だった。客室に招待され、茶菓までいただいて、更に「柴胡について」実物を前に色々菱山氏のお話を承ることも出来てーーすっかり菱山家のお世話になって相模原に引上げたのである。「鉢植」が来ると「実物が来た」というわけでこれを大切に高橋助役さんが管理されることになり、毎日水をやったり、日に当てたり大変なことになったがー流石に相模原の人達に関心をもたれている草だけあって、助役室は「柴胡訪問客」で連日大変な「にぎやかさ」であったという。こうして、「まるばさいこ」と「すずさいこ」が相模原市にデビューして呉れたが、かんじんの本尊様、大立物の「かまくらさいこ」はまだ来ていない、これをどうするか、どこか捜索に出かけようと話し合っていたがーーまだ「さいこ」には「かわらさいこ」なんぞというのもある。これを一つ小生の力で探し出そうと、決心して「水郷田名」の相模川に出かけ「河原」を探し廻った「高田橋付近」を探したり、「火の坂」下の田圃道を探したり平日を費したが得る所はなかったのである。「河原柴胡」は河原という名があるが、河原ばかりでなく橋本の原っぱにも姿を見たことがある。山にも原にも出ている草だが、「やっぱり必要で探す時には」なかなか見つけ出せないものだ。世の中の万事がすべてそうだが、「儘ならぬが浮世の常か」。
 久所(水郷田名)の河原で見つけ得られず、まことに残念だ。しかし「必ず筆者の手で」という意気込で、更に二、三日して筆者の生家に近い「望地河原」に出かけて午后たっぷり半日を費して探した。そうしたら「神も見捨て給わず」か夕刻近く大きな株つ。一株があったのである。さっそく鉢植にして翌日市役所に持参に及んだ。
 十月十一日。この日とうとう菱山氏が「かまくらさいこ」を市役所に持参して呉れたのである。筆者が「かわらさいこ」を市役所に持参した翌日であった。菱山忠三郎氏は折角相模原市で期待しているのだから是非というわけで随分「探す」にお骨折をされたようだ。近所にないので丹沢山に遠征され、ヤビツ峠あたりから登山され、とうが岳あたりまで廻って一日苦労され、探しても探しても求めることが出来ず、夕方になるし、あきらめて秦野側に下山しようとされたその時「かまくらさいこ」の二三株が見つかったのだそうだ。しかもそのそばには「武蔵野名草むらさき」の群落まで添えて。「本物の柴胡が見つかった時は随分うれしかったよ」と菱山氏が語られたが、まったく相模原市のために大きな御骨折をおかけ致した次第でつくづく有難くなる。とうとうおかげで市役所に「かまくらさいこ」「まるばさいこ」「すずさいこ」「かわらさいこ」と「柴胡」と名のつく植物四種の鉢植が揃ったのである。さっそく読売の赤間さんが来ていただいて「かまくらさいこ」の写真をとり、すぐに読売新聞連載の「相模の動植物」に「相模原市ゆかり」の植物として「柴胡」物語を出して貰うことにした。そうして待っている間、十一月十日の読売新聞にとうとう出たのである。市民のだれも、かも、筆者の顔を見るなり「柴胡が出たな」と云って呉れる。まったく嬉しかった。十一月十九日には更に読売紙上に「まぼろしの草柴胡、丹沢山中の発見」と 菱山氏の苦心を出して呉れた。こうしておかげで市民の頭に柴胡なる草が相当に焼きつけられたのである。菱山さん「有難う」。
 十一月二十日、三十日は「市文化行事期間」として数々の行事が開催されたがその会場に当てられた市民会館で高橋助役、小川収入役等の肝煎で「柴胡の展示会」が開かれたのである。四種の鉢植を揃えて市民に充分に見ていただく事にしたのである。筆者は一生懸命「柴胡説明書」を作って来観者にくばった。この展示会はまことに盛況であったが、これですっかり「柴胡」というものを市民が認識したらしい。これが終って、あとは鉢植を高橋助役氏が保存して呉れることになったが、来春には目出度く新しい芽ぶきを見ることが出来そうかどうか。(筆者はまだ柴胡を鉢植にして越冬させたことがないので来春に芽吹するかどうかいまだ不明である。)
 長々と「柴胡」の事を書いたが、以上のような結果で「さいこ」が始末出来たのである。それにつけても八王子自然友の会の皆様方の「御熱心さ」「実力の豊富さ」「驚学さ」には頭がさがるのである。その面目を遺憾なく発揮されてお骨折下された菱山忠三郎氏には万腔の感謝をささげる次第である。  (四三・一・二〇)


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